Update: 1998/3/24
今では、仕事や趣味に欠かせないツールとなったコンピュータ。今回は、私のコンピュータとの出会いについて書いてみよう。
私がコンピュータに初めて触れたのは、大学の応用電子工学講座でプログラミングの実習をした時だった。当時のマシンは、MELCOMという三菱電機の大型コンビュータで、言語はFORTLAN、入力装置はテレタイプ、出力装置はラインプリンタであった。今から25年前のことである。まだ電子計算機という言葉が当たり前の時代だったので、コンピュータの可能性はよく分からなかったが、なにか面白いことができそうだという予感はあった。
そこで大学を卒業して、大手コンピュータメーカに就職した。その会社は通信や音声認識の研究でも有名であり、配属先はコンピュータ自体を作る部署ではなく、コンピュータの応用分野を希望していた。しかし、当時はIBMに対抗して国産コンピュータを開発するのが業界全体の目標であったため、有無を言わさずコンピュータ開発部門に配属された。入ってみると残業、残業の連続で、いきなり昼も夜も区別のつかない生活に陥ってしまった。
そんな中で、アメリカでは、Intelという会社がワンチップCPUを開発し、その後Appleがパーソナルコンピュータを開発したというニュースが入ってきた。当時は、コンピュータは空調の効いた広い専用のマシンルームに設置され、時間を予約して端末をたたくというのが常識だったので、個人専用のコンピュータが作られたというのは信じられないことだった。
1976年のある日、私の会社から「TK-80」というパソコンの製作キットが発売されることを知った。この企画は、コンピュータ開発部門からではなく、半導体事業部がCPUチップ販促のために出したものだった。ところが、これがコンピュータマニアの間で大評判になり、その後NEC PC98シリーズに発展し、長い間、日本のパソコン業界を独占してしまうことになる。
私も、すぐさま社内販売でこの「TK-80」を購入し、初めてのパソコンを製作した。製作するといっても若干のハンダ付けがある程度で、プラモデルの製作といった感じだった。CPUは8080、メモリ1KB、テンキーボード、液晶7セグメント表示というスペックで価格は約10万円だった。外部記憶装置はなく、雑誌で紹介されたオーディオカセットテープに記録する方法しかなかった。それでも、家庭用TVにパソコンの文字が表示された瞬間は、とても嬉しかった。
打ち込んだプログラムは、もっぱらゲーム類で、「スタートレック」「迷路ゲーム」等で遊んだことを覚えている。まだ、BASIC言語が使えなかった頃だったので、機械語でワンステップづつ打ち込むという効率の悪い時代であり、また外部記憶装置の信頼性がなかったので、何時間もかけて打ち込んだプログラムが、一瞬で消えてしまうことも日常茶飯事だった。
一方、1970年代の後半、東芝から世界初のワードプロセッサが発売された。1号機は、たしか650万円という高価なマシンだったが、その後急激な価格低下が起こり、80年代後半に一気に普及した。初期のコンピュータは、日本語を扱うのが苦手だったので、日本語文書作成処理に特化したワープロは、長い間、日本独自の発展を遂げた。私が初めてワープロを使ったのは、1985年頃だったと思う。
それまでは、手書き原稿を、職場の庶務嬢に渡して、ワープロ化してもらっていた。しかし、些細な修正でも、いちいち依頼しなければならないのが面倒だったので自分で覚えることにした。その後、個人でも購入できるほど値段が下がったので、自宅でも使うようになった。初期の頃は、もっぱら年賀状作成ぐらいしか使わなかったが、パソコン通信を始めるようになり、大いに活用するようになった。私のホームページのNIFTY SERVEコーナーの文章は、実はほとんどワープロで作成したものである。
1982年に、今の会社(キヤノン)に転職した。20代をコンピュータ企業で過ごし、製品を何機種も出荷したが、「一生この会社で同じような仕事をしていけるのか?」ということを自問自答していた時期である。どうせなら、新しい分野で自分のやりたいことをやってみたいという思いが強くなり、あえてコンピュータ分野には決して強くないキヤノンへの転職を決意した。
幸い、キヤノンでは、カメラ専業メーカから、複写機やプリンタ等の事務機事業への多角化を図っていた時期であり、コンピュータや通信等の新しい分野に意欲的に取り組み始めていた。ちょうどその頃、Xerox社からStarという全く新しいコンセプトのワークステーションが発表された。Ethernet(LAN)、ビットマップディスプレイ、マルチウィンドウ、マウス等今では当たり前になった技術がきら星のごとく組み込まれた画期的なコンピュータの出現であった。
このマシンは、商業的には成功しなかったが、その後、AppleのMacintoshやMicrosoftのWindowsへと受け継がれることになる。
1988年、キヤノンは、Appleを離れてスティーブ・ジョブスが作ったNeXT社に1億ドルを投資すると発表した。そんなわけで私は、彼が創ったワークステーション"NeXTcube"をいち早く触れる機会を得た。まだ、OSのバージョンが0.8で、日本語化されていない状態だったが、黒い立方体のマシンに電源を入れた瞬間、言いようもない興奮を覚えた。美しい画面デザイン、統一された操作性、CD品質のサウンド、大容量記憶装置光磁気ディスク等、それまで見たどのコンピュータより魅力的だった。なによりも、使っていて楽しくなるコンピュータに出会えたのが嬉しかった。その後10年間、3世代に渡って、私はこのマシンを使い続けている。
会社では、NeXTコンピュータを愛用していたが、個人で使えるコンピュータを所有したいという願望が次第に強くなっていた。そんな折り、東芝から「DynaBook」というA4ファイルサイズのノートパソコンが発売され、思わず飛びついた。1990年頃のことだった。CPUは80386、メモリ8MB、OSはMS-DOS3.1で、重量も数Kgの時代だったが、持ち運びできるコンピュータに出会った初めての体験だった。その後、AppleのMacintosh PowerBook、松下のLet's noteを経て、現在はSonyのVAIO note(PCG-505)を使っている。
コンピュータに出会ってから約25年、コンピュータの劇的な進化とともに、私は人生を歩んできた気がする。21世紀まであと数年、これからどんなコンピュータが出現するだろう。
PalmPC, WalletPC, AutoPCなど、コンピュータはますます小さく、そして賢くなっていくに違いない。人間が発明したこの素晴らしいツールとこれからもずっと付き合っていこうと思っている。
1998.3.22 中村 安夫
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Update: 1998/3/22